「神経膠腫でしょう」 こういうのを青天の霹靂と言うんだろう。それは2007年の7月3日、県立中央病院での出来事。かみさんに誘われて受けてみた、人間ドックの脳ドックオプションのことだった。 私の脳味噌のMRI画像に映し出されていたものは、他の部分とは明らかに異なる白い塊だった。それは脳の左側にあって、直径は約2センチメートル、ほとんど梅干し大の大きさである。 |
私の脳のMRI画像 (左は造影剤なし、右は造影剤あり。どちらも輪切りにして下から見ている) |
私、当時で49歳。介護福祉士をしているかみさんと、東京でその年の春から就職した長女、大阪で大学に通う次女が家族だ。 性格は、わりと神経質な方である。何をするときでも1、2、3、4、5と数を数えている。手を洗うとき、顔を洗うときにでも、1、2、3と数えている。それから机の上がきちんと片づけられていないと気になる。まぁ軽い強迫神経症である。が、そのくせ「なんとかなるさ」と、いつもほがらかに能天気に過ごしてきた。 職業は、建設機械のメーカーから、現在の一般産業機械のメーカーに転職してきて早約20年になる。当時は商品開発部の部長職であった。地声が大きいこともあって職場で何か言うと皆に聞こえているというありさまである。 趣味は25年間、単車に乗っている。正確には乗っていた、が正しい。ここ6年間は乗っていない。とっかえひっかえ同時に3台所有していたこともある。なかでも1990年の自動二輪免許の限定解除試験のときには、過去に受けてきたどんな試験よりも合格したことが嬉しかった。特に運動が得意っていうわけじゃなし、金で買えるものなら免許を買いたい、けれども買うわけにいかないという状態でいたのだが、会社が完全週休二日制に移行したこともあり、一念発起して受験しに行った。合格率3%という困難な試験で8回目にして見事合格した。これも現在では教習所で大型自動二輪の免許として簡単に取得することができる。 それから10年ぐらい前から、手縫いの革鞄を作っている。もともと、気に入ったものがないのなら自分で作っちゃえという軽いノリで始めたものだが、これがやってみると実におもしろい。自分で言うのもなんですがプロ級の腕前。我ながら器用だと思う。そのホームページが「暁工房」 http://akatsuki.a.la9.jp/だ。作品集に始まり工房・道具・雑感・参考文献など、ちょっと気合を入れて読まないと生半可な気持ちではコンテンツが一杯あって読み切れない。 最後に写真を撮ること。カメラを使用することは、メカニカルなところがもともと好きだったのだが、ホームページの素材としてUPできることからも、最近どんどんのめり込んでいっている。 2007年7月18日に造影剤を血管から入れてMRI撮影。翌19日に結果を聞きに行く。 「詳しいことはこれから調べてみないことにはわからないが、たぶん神経膠腫であろう。手術は私が執刀しても問題ないレベルだが、大学病院には私をここに派遣しているボスがいる。そっちを紹介するので、そこで手術と後療法をしっかりやってほしい。」担当医師の話をかいつまんで話すとこんなこと。その場で早速、大学病院への紹介状を書いてもらって、その場はそれでおしまいになった。 神経膠腫と聞いてもさっぱりわけがわからない、まぁ脳腫瘍の一種であることには違いないんだろう。 帰ってからwebで調べてみると、脳には神経細胞とその間を埋めている神経膠細胞があり、この神経膠細胞から発生する腫瘍の総称が神経膠腫(グリオーマ)であるのだそうだ。脳腫瘍になるのは人口10万人に対し12人程度で、さらに神経膠腫は全脳腫瘍の約30%を占め、星細胞系腫瘍(原発性脳腫瘍の約22%)・乏突起膠腫(同じく、約1.1%)・上衣腫(同じく、約1.1%)・脈絡乳頭腫(同じく、約0.3%)に分類されることがわかった。わかったからと言って確率論なんかくそくらえである。この気持ちは、なってしまった者でないとわかりはすまい。 この腫瘍は周囲の脳との境界が不鮮明であるといった浸潤性の特徴を持っており、神経膠腫の中で最も多い星細胞系腫瘍は、その悪性度により4段階に分かれる。 Grade I は毛様性星細胞腫といい、増殖能が低く主に小児の小脳や視神経、視床下部に発生する。あまり周囲の脳に浸潤せず、肉眼的に全摘出できれば完治することができる。 Grade II はびまん性星細胞腫といい、増殖能は低いけれども、脳に浸潤する性格を持っている。しばしば再発し悪性転化する可能性がある。手術で全部摘出できない場合には、術後に放射線療法が必要になる。 Grade III は退形成性星細胞腫といい、病理組織的に腫瘍細胞は多形性で核異型があり核分裂像が散見され、退形成(悪性)変化が加わった腫瘍である。治療には放射線と化学療法が必要になる。 Grade IV は膠芽腫といい最も悪性度が高い。特に脳への浸潤性が強く、病理組織的には腫瘍細胞密度が高く多形性と顕著な退形成を示し、壊死と微小血管増生がみられ、手術での全摘出は困難である。従って術後の放射線療法と化学療法は必須となる。 しかもWHO分類のGrade は臨床的な予後によく相関し、Grade IIでは生存期間中央値が7-9年、Grade IIIは2-3年、Grade IVは1年以内とされているとある。 おいおい、である。 まだまだ人生この先長い。まぁ、自覚症状が何にもなくて早期発見であることからして、この数字よりは長生きできるとしても恐ろしい。 早期発見といえば、かみさんに感謝してもしきれるものではない。本当に自覚症状は何もなかった。頭が痛いわけでもないし、手が震えるわけでもなく、ひきつけを起こすわけでもなかった。実に脳ドック様々、受けてみるもんだなーということである。 この間、不安を抱えつつ(実際は不安でも何でもない、事実はわからないんだから)、会社に出社していた。出張にも出かけて講演会も2度ほどおこなってきた。これが気持ちを紛らわしていたのかもしれない。通勤の車の中でZARDの「負けないで」と大事MANブラザーズバンドの「それが大事」を繰り返し繰り返し口ずさむ。 さすがに、頼んでおいたカメラのレンズを受け取りに行ったときに、5年間保証は付けますかと聞かれて、あ5年だったら、もうこの世にいなくなってるかもしれないな、と感じている自分がいることに気づいて、はっとして、しっかりしなきゃと思った。 大学病院についてもwebで調べてみた。担当教授(例のボス)は優しい感じの好感が持てる人、ナビゲーション装置もアミノレブリン酸(術後になってコスモ石油が砂漠に植物を植えるとか、光合成を促進するとか研究していることを知った。「ALAちゃん」である)の使用などの設備も揃っている。それに数をこなせばいいってもんじゃないけれど、いやそれだけ慣れているってことかな、手術件数のランキングも上位である。 セカンドオピニオンは、ある都内の大学病院と決めていたのだが、どうせ同じこと(手術をして摘出後、様子を見てから後療法)を言われるだけと思い、県立中央病院がファーストオピニオンとして大学病院がセカンドオピニオンといってもいいと考えた。まぁ処置に不満があれば、その都内の大学病院で手術ということにしよう。県立中央病院の医師も同意見であった。 この決定が後々あらゆる意味で重要な意味を持つことになった。 さて、いよいよ運命の2007年7月24日、紹介状と画像の入ったCD-Rを携えて大学病院にいった。 手術である。 半分冗談で腕の一本も動かなくなってもしょうがないから、命だけはなんとか助けてほしいと担当教授(主治医)に伝えた。余裕(ということにしておこう)である。まだこの時点では失語症を代表とする高次脳機能障害の症状が現れることは予想だにしなかった。 その日のうちに8月1日に個人病院で磁力3テスラのMRI(どこにでもある磁力1.5テスラのMRIに比べて、より精細な画像が撮れる)、8月6日に県立中央病院でPET (頭部メチオニン検査:アミノ酸代謝をみる。全身FDG:グルコース代謝をみる)を予約してもらって帰ってきた。 午後姉に電話。時を同じくして実家の親父(当時87歳)も舌癌になっていた。調べてみると舌癌以外にもアスベストによる肺癌も発症していた。こっちの方が深刻である。8月2日と8月10日に病院に見舞いに行く。このときは、「もし額の左前側にハート形の傷をつけられたりしたら恥ずかしくって外を歩けなくなるかもしれん・・・」と言って、笑わせる余裕もあった。どうせ術後3週間で退院できて無罪放免ということになるんだからと、良い方に良い方 に説明していた。ま、実際もそう思っていた。 2007年8月11日、角島、青海島、仙崎方面に旅行。天気も快晴で、手術のことなど忘れて楽しかった。このときの角島大橋の写真は2年たった今でも私のパソコンの壁紙になっている。 |
角島大橋 |