3.いよいよ手術だ
<2.青天の霹靂> 0000000 <目次> 0000000 <3.ぐんぐん良くなっていった自宅療養期>



 入院をしたのは2007年8月15日である。
 脳腫瘍がわかったのが7月3日だから、この間に腫瘍が大きくなってるんじゃないかと内心びくびくもんだった。「これから起こることは全部結局は わしの責任じゃけん、誰も恨まんようにしょうな」と、かみさんに言って入院した。
 見かけ元気だからいいようなものの、何枚もの書類、脳血管カテーテルとかアミノレブリン酸を使用することとかの同意書にサインさせられた。これが元気じゃなかったら、たいへんだ。
 本日夕食後よりエクセグラン100mg 1日2回朝夕食後に処方される。
 入院して以来ひっきりなしにMRI検査をされた。MRI中に手を動かす、しりとりをするといった脳のどこにどんな部分が存在しているのかを調べていたようだ。MRI検査の結果、腫瘍は大きくなっていないとのことでひと安心。



病院の窓から見た景色

2007年8月18日(土)
 主治医、担当医2名がそろって手術の説明。
 脳の左側に病変があり、病名はグリオーマと推定。術中に細胞検査で種類を確定する。他の重要な機能を阻害することなく全摘出することができると考えられる。悪性度によってはだめ押しとして放射線または抗癌剤治療を併用する。入院期間は手術のみなら術後2〜3週間、放射線併用ならさらにそのあと1か月必要。
 痙攣発作をまれに起こすことがある。薬を予防的に処方して半年発作がなければまず大丈夫。開頭は運動機能部の位置を確認するため腫瘍よりは大きく開く。チタンプレートで固定。傷口は髪に隠れるようにして頭をぐるりと約半周する。(あ、そう。額に穴をあける鍵穴手術じゃないわけね)骨がつながる2ヶ月以前に通常の生活が可能。術後はICUかHCUにいて、次の日から自分で食事が摂れる。その次の日から歩ける。とまぁこんなところ。

2007年8月20日(月)
 坊主頭になった。剃ると細かい傷ができてかえって良くないらしい。ナビゲーション用のマーカーも頭に取り付けた。


頭に取り付けたナビゲーション手術用のマーカー

 脳血管カテーテル検査用に陰部除毛する。この検査は、そ径部から血管の中を通して脳の入り口まで挿入するのだが、本当にあっという間に終わってしまった。それからが大変である。ベッドにうつぶせに寝かされてそのままの姿勢で何時間も固定された。最後は小便がはずんでしまって、尿瓶へは排尿したくてもできなかったので、ちょっと早いけれどももういいかなと言われて解放してもらった。

2007年8月22日(水)
 朝、軽いぎっくり腰になった。ありゃりゃこんな時にぎっくり腰になっちゃってどうしようもないな。担当医に、ぎっくり腰のことは気にせず、すぱっとやっちゃってくださいと伝えた。
 かみさんと、長女、次女、久しぶりに家族がそろった。いいものである。いや、いいものでもないか、明日は手術なんだから。

2007年8月23日(木)
 いよいよ手術当日、アルミ箔に包まれてきたアミノレブリン酸を飲んで8時25分出発。術前に紫外線に当たると癌細胞に取り込まれているアミノレブリン酸が光に反応してしまうので、バスタオルをかぶせられて寝台車に載せられた。
 手術室に入った時点で意識が途切れた。
 20時10分 家族に説明があった。手術は成功。腫瘍の周囲を2cm位多く取った。ほとんど取りきれた。腫瘍の種類はグリオーマで全体としてGrade II、中心部はGrade IIIであった。マーカーテストがうまくいかず、少し時間がかかった。2週間くらいは、ボーッとする、右手を動かさない、言葉が出にくいなどあるかもしれないが一過性のもの。障害は残らない。痙攣発作に注意すること。術後のCTを見せてもらいながら説明を聞いていたそうだ。
 20時20分 HCUに面会。右手は握力が弱い。右足は動きにくい。言葉は理解している。自分で呼吸器を外そうとする。とは後になって、かみさんの言ったことで、本人はボーッとしていてほとんど記憶がない。

2007年8月24日(金)
 10時30分 HCUにて面会。酸素マスク、点滴の管、手当たり次第にひっぺがそうとする。そのたびにナースコールを、かみさんと娘二人が押していたそうな。酸素マスクを外していたため息が荒く胸が痛いとのこと、ナースコールを押して酸素マスクをつけてもらい落ち着いた。右手で左手のシールを剥がそうとしたり、タオルケットを引き上げたりする。言葉の内容は理解しているが発語しにくい。これも後で、かみさんに聞いたこと。
 13時45分 個室に移動。尿管を引き抜こうとして看護師さんに制止されたことは憶えている。痙攣止めの点滴はものすごく痛かった。夕食は右手を使って食べようとする。でもこのころは夢見心地である。

2007年8月25日(土)
 今日は、かみさんの誕生日。娘二人にプレゼントをもらってにこにこしていた。
 8時30分 娘は二人とも帰って行った。右手での髭剃りに夢中で声をかけてやれなかった、プレゼントのこと、出発にあたってのどうでもいいようなこと、話したいことは山ほどあった。まぁこの時点では言いたくても言えない状態だったが。
 髭剃りと言えば鏡を使って初めて術後の自分の姿を見た。包帯、ガーゼぐるぐる巻、アラブ人のターバンを巻いた姿を想像していただきたい。
 13時00分 尿管を抜いてもらったので、車椅子でトイレに行った。顔が横向きに腫れている。特に左側が著しい。
 16時30分 言葉ゲーム。これも後で、かみさんに聞いて知った。
 19時00分 一人で歩いてソファーに座る。ノートパソコンを触ってみるが、できない。キーボードの上を左から右へ何度もなぞる。

2007年8月26日(日)
 1時30分にトイレ。そこでついでに、いたずら心が起きてベッドの上で痙攣のまねをする。傍で見ていると、ヒーヒー言いながら息をして、左足をバタンバタンとさせて、しんどそうとなる。でもナースコールを押される、これは大ごとになるなと悟ったとき、必死にナースコールのボタンをガードして、かみさんの手を押さえていた。まだこの時点では、いたずら心が起きて痙攣のまねをしているとは言いたくても言えない。で結局ナースコールは押されてしまって、CTを撮りに行く羽目になってしまった。しかも痙攣止めの薬も追加されたことを後になって知った。この騒ぎは個室の二つはなれた大部屋にも聞こえていたらしく、大部屋の方が心配して「ご主人、大丈夫でよかったですね」と声をかけてくれた。ずっと後になって、この件に関しては、かみさんからこっぴどく怒られることとなる。
 かみさんは、個室に入院中ということもあり、短時間洗濯とかの用事をすませてくる間以外はすべて一緒にいてくれた。この記録も、かみさんのノートをもとに間を省略して書いている。
 8時30分 担当医の問いかけに自分の名前はスムーズに言える。現在の年号、ボールペンは言えない。現在の年は19○○のところで止まって考えている。担当医が、明日からリハビリを始めてみようかとのこと。
 9時15分 「タオルケットかける?」との問いかけに「うううん」で首を横に振る。画期的である。今まではたいていウンウンでうなずいていたそうだ。何が画期的なのかというと、何を聞いてもウンウンとうなずくだけでなく、自分の拒否の意思をはっきり示せたということらしい。
 13時50分 点滴にポンプをつける。じっとしていないで歩き回るから。ゆっくり落ちる点滴でも、歩き回ったときに逆流しないそうだ。今日はずっとソファに腰掛けて過ごした。
 16時50分 看護師の、お名前は?の問いかけに対して自分の名前を答える、ここはどこですか「かんべんしてちょ。びょうー?びょうーしつ」生年月日は「〜七年」(1957年が出てこない。ずっと前から生年月日は西暦を使って話していた) これでは術前にいた大部屋で向かいのベッドの高校生のT君以下である。後で聞いて知ったのだが、彼は答えたくないからという理由で答えていなかったそうだ。
 20時00分 今日は大学病院の近所で花火大会がある。かみさんが病室の窓からも見えるよと言って誘うが、このときばかりは正直いって面倒くさかった。本当は大好きなんだけど。
 朝夕食後に痙攣止めのアレビアチン100mgとエクセグラン100mgを胃薬とともに飲む。
 この頃、体の右半身をよくぶつける。それからベッドに上がるときに、立って階段でも上がるように上がってから座っていた。かみさんと看護師さんが傍で見ていて転んで頭を打つんじゃないかと、ひやひやもんだったそうである。
 ベッドサイドの床に脱走防止用の感圧マットを敷かれた。これは初めのころこそ有効であったが、しばらくしてから、スリッパを感圧マットから外れた部分に、そーっと持ち上げて持って行ってから脱走していたので意味がなくなった。

2007年8月27日(月)
 13時40分 整形外科受診。明日から筋力のリハビリ。
 19時25分 主治医がやってくる。運動、言語に関する部分は触っていないので2週間位で元に戻るとのこと。
 痙攣止めの薬は夕食後からエクセグランだけになる。
 額がまだらに濃い滲みのようになっている。角島方面に旅行に行った日焼け跡かと思っていたがそうでもないようである。これはどんどん治って行ったが、11月に入る頃まで続いた。
 クーラーのリモコンの使い方がわからなくなっていた。何度に設定されているかということは理解できるのだが、温度調節のための▲▼矢印が特に理解不能であった。これは一度聞いて理解した。
 握力をつけるために売店で買ってきたアンパンマンのキャラクターが付いているボールがある。それの投げ方がわからなかった。これは右手が肩まで上がらないことに加えて、投げ方を忘れてしまっていて、あたかも砲丸投げのごとくになっていた。右手でキャッチボールをしているうちに2、3日したらだんだんと治った。

2007年8月28日(火)
 9時00分 年齢がさっと言えた。
 11時00分 担当医がやってくる。右手をあげてグーパーを確認する。手は肩まで上がるが、パーはできない。「キーホルダー」「とけい」「パソコン」を指して名前を聞く。「キーホルダー」「パソコン」は言えるが「とけい」は出てこない。
 13時30分 長女あてに電話をかけてもらう。「もしもし・・・」あとが続かない。
 14時00分 筋力のリハビリ。担当の理学療法士(PT)がいて、腕の上げ下げ、指折り、握り開き、歩行、ベッド上で足の曲げ伸ばし、机の前に座って右手でお皿の中のボルトや小石などをカップに移す。このときは車椅子で行った。このあとで見違えるほど症状の改善が進むことになる。
 17時30分 姉あてに電話をかけてもらう。姉が早口でまくしたてる。言われたことはその場ではわかるが、憶えていられない。もちろん伝えることもできない。
 19時30分 次女あてに電話をかけてもらう。「たのみがある、けいたいから、ちゃくしんのてんそうのしかたをおしえてくれ」 まがりなりにも文章になった言葉をやっとしゃべった。術後、パソコンのパスワードが思い出せないでいたから、そういった内容の言葉が出たのであろう。このパスワードの記憶違いはこの先退院するまで続いた。パソコンの前に立っては入力して間違って、入力して間違ってを繰り返していた。かみさんの名前と、結婚記念日と、かみさんの誕生日と、自分の誕生日と、自分の名前との組み合わせだと思っていた。実際は、かみさんの名前と、かみさんの誕生日に結婚記念日だった。

2007年8月29日(水)
 7時50分 担当医がやってくる。手あげ、発語などを確認する。「だいぶ、いいですね」
 9時10分 耳鼻科受診。明日から言語のリハビリ。
 10時00分 痛かった点滴(フィジオ35)がとれた。明日から朝晩1時間ずつのグリセオールと肝臓の薬だけになる。点滴が取れたので一人でさっさとトイレに入りドアを閉めた。これで車椅子からは解放される。


病院の昼食
(ちょっと前から業務で、魚が骨まで食べられるという機械を開発していたので、
骨まで食べられると勘違いしてガブッとやってしまって後でえらいことになった)

 16時30分 リハビリが終わって、「うんどうぐつ」と明日から運動靴が必要だということを、かみさんにやっと単語で伝えられた。
 18時00分 夕食。右手にスプーンを持って一人で食べきる。スプーンは初め普通の家庭用の金属製のものを使っていた。握力が弱っていたせいなのか、手先が器用に使えていなかったせいなのか、食べにくかった。そこでシリコーン製のスプーンを売店で買ってきてもらった。これは端っこが柔軟で容器の淵に沿って、食べやすい。これで、自分で食べられる。
 19時00分 看護師のお食事はどのくらい食べられましたか?の問いかけに「えーと・・・せいいっぱい」(実は全部食べている)
 この頃から単発的に単語を発するようになる。

2007年8月30日(木)
 8時30分 看護師の調子はどうですかの問いかけに、しばらく考えてから「ぼちぼち」と答える。
 10時50分 担当医のボールペンを指して、これは何ですかの問いかけに「ペン」、名札を見せてこれは?「のうしんけいげか」、今日は何月何日ですか?「7月?・・・8月30日」別の担当医から右手右足は使えだしても、しばらくは無視する傾向にあるとのこと。言葉は?「そこそこ」
 11時15分 抜糸「ひるからのびんもあるよ」実は半抜糸ということを、かみさんに伝えたかった。
 12時00分 昼食。右手で箸を持って食べる。まだ挟むというよりスプーン的なすくうといった使い方。
 14時00分 筋力リハビリ。もう車椅子はなくても平気。お箸でボルト・チョークの切れ端・パチンコ玉を移し替え、パチンコ玉のみできない。できたボルト・チョークの切れ端は移し替えで何度か練習する。PTが左側をささえて廊下を2周する。そのあと腕・足の曲げ伸ばし。PTは、来週には病棟内を歩ける許可をとってみるとのこと。
 16時00分 言語リハビリ。担当の言語聴覚士(ST)がいて、始めは標準失語症検査(SLTA)からである。それから、単語をつなげて、まがりなりにも会話した。
 16時50分 このフロアーの中なら散歩してもよいとのこと。
 18時00分 夕食。右手で箸を使って挟んで食べる。

2007年8月31日(金)
 9時35分 看護師の、おしっこは何回ぐらいですかの問いかけに「むちゃくちゃたくさん」と答える。その状況で、言えることが限られているので、一見会話は成立しているように思えても、つい心にもないことを言ってしまう。
 11時00分 残りの半抜糸。これですべてとれた。
 13時15分 言語リハビリ。初めて絵をみて漢字を書く。にくずきだけ何度も繰り返し書こうとするのだが、うまく書けない。文章はすらすらと読める。しかし自発話での単語の表出はほとんどみられなかった。複数の物(ハンカチ・はさみ・鍵)を一度に見分けることがうまくできない。カードを4枚並べて一つ一つ質問される。最後に順番にカードを見せられながら、そのカードに書いてある物の名前を繰り返し言う。
 14時00分 筋力リハビリ。右手を使った器用さの訓練・歩行・手足の訓練などが続く。
 16時00分 主治医回診。今は上達が見られないかもしれないが、これからぐんぐんと良くなるはず。
 実は、運動機能に関しては何も心配していなくて、一方で言葉に関してはこの時点から心配していた。「ことばのリハビリ、かいておいてほしい」と何度も言っている。ま、今までもなんとかなるさで過ごしてきたから、今回もなんとかなるんではないかな。

<STの評価>
初回評価SLTA (平成19年8月30〜31日)
 理解 :単語や短文の理解は良好だが、内容が複雑になると、部分的な誤り、聞き
     返しが認められ、反応までに時間を要する。日常生活上のやり取りは、状
     況判断を含め、概ね可能。
 表出 :発話は非流暢で喚語困難が認められる。語頭音ヒント・意味ヒントは有効
     であるが、一度詰まったら保続となる。復唱は短文で良好。音読は音の誤
     りなく短文レベルまで可能。
 読解 :複雑な内容でも可能。新聞・雑誌の理解可能。
 書字 :仮名・漢字とも単語レベルで不可。自分の名前の書字は、仮名1文字ずつ
     のヒントにて可能。書き取りは、呼称・復唱後に書字することによってや
     や正答率が高くなる。
 計算 :1桁程度なら可能。
 訓練では、発症後すぐということもあり、反応に波が大きい。病状の理解、代償手段の検討を含め、複雑な内容の理解力、喚語能力の向上を中心にアプローチを行う、全く自発話が認められなかったが、日に日に徐々に単語レベルで発話できることが見られている。理解面は、短文程度では可能だが、日常会話では、あいまいな事が多く、文字・状況などの補助が必要である。

2007年9月1日(土)
 童謡は始めを歌えばあとはスムーズに出てくる。しかし頭で考えている言葉が表出しにくい。
 夕食後、はじめて自分でお盆をさげてもっていく。
術後初めて度付きのサングラスをかける。なにしろ顔や頭の腫れがひどくて、弦の柔軟なサングラスでないとかけられない。

2007年9月2日(日)
 15時00分 ガーゼがとれた。デジカメで撮影して傷口をみる。なんともはや、生々しいかぎりである。まだ頭を洗う許可は出ていない。


なんとも生々しい傷跡

 顔や頭の腫れがちょっと引いてきたので普通の眼鏡をかける。
 この頃から、単語に加えて短文を発するようになった。まだ意図した発言はできない。
 自宅の住所はの問いかけに対して「そんなものしらねえ」
 「もういっかいいってみるってことは、おうむがえしにかえしているだけ」
 「いつもよんでいる、はまってはいけない」
 「シビアなコントロールは なんぼでもできる」
 「なんてかいとくかって めっちゃむずかしい」
 「であってからずっとこれまでいっしょ」
 これが今日話した短文の全てであった。

2007年9月3日(月)
 10時20分 担当医の回復度チェック。たまたま入院中に持っていた団扇があって、それには「sea of music JOEU-FM SUMMER 2004」と書いてあった。それをさし示してどう書いてあるのかとの質問には、スラスラと読むことができる。これはつい最近までサザンオールスターズの「海のYeah!!」だとばっかり勘違いしていた。「海のYeah!!」とはどこにも書いていない。
 10時30分 許可をもらって、病院構内を散歩する。体を動かしたくってどうしようもなかった。
 13時00分 言語リハビリ。このところ理由ははっきりわかっているのだが、よく泣いてしまう。これを感情失禁と言うそうだ。初めて耳鼻科でSTに出会った時もどういうことかわからないけれど感情が高ぶって泣いてしまった。術後涙もろくなってしまったが、もの心着いてから、かみさん以外で涙を見せたことがある唯一の人がこのSTである。
 14時00分 筋力リハビリ
 19時00分 病院構内を散歩する。
 脳力トレーニングの本を、かみさんが買ってきてくれた。こんなもんできるかというプライドと面倒くさいということとがあって、初めはすんなり取り組むことができなかった。ところがやってみると結構難しい。ごくやさしい計算問題はなんとかできる。お金の集計問題は時間をかければできる。間違い探しもなんとかできる。音読はスラスラできるが、早口になってしまうし、頭に意味が入ってこない。
 今まで睡眠時無呼吸症候群の治療で何年間もマウスピースを装着して寝ていた。それが今回入院するということになってから、何の根拠もないが、ちょっと外して寝てみようと考えた。外して寝たら翌日も眠いことなく過ごせたので、ふーん、治ったのかなぁ。うけ口になって眠らされていたのが、固定されちゃったのかなと考えていた。
 そこに言葉が出ないという問題があって、脳に酸素がいってないんじゃないかと不安になって、マウスピースをして寝てみた。しかし結局、変わりはなかった。

2007年9月4日(火)
 13時10分 言語リハビリ。検査が終わり、本格的にリハビリ訓練を開始する。その訓練内容は、絵の描かれたカードを9枚並べてSTがその名前を言うことを憶えておいてから、カードを指しながら自分で発語する。2〜3語であればできる。
 14時10分 筋力リハビリ。右手で穴に挿してある複数の短い棒の上下を入れ替える。箸でパチンコ玉をつまめるようになった。
 病院構内を散歩中に、かみさんに出題してもらい、繰り上がりの計算をする。これは昨日買ってきてもらった脳力トレーニングの本で、1の位と1の位を足すと繰り上がって10の位になることに、ちょっと引っかかっていたからだ。この症状は、この後数日間続いて治った。
 術後、眼鏡をはずしていたということもあるが、テレビをつけなかった。術前でもそうだったけど、病院の入院中にどうしても必要とは思わなかったから。でも、かみさんはニュース番組とかバラエティー番組とかあらゆる手段で脳を刺激するということを考えていたらしい。後になってニュース番組は見るようになった。


病院の夕食

2007年9月5日(水)
 12時40分 術後初めて携帯電話で会社の同僚Fさんにメールを送る。といっても、かみさんに手伝ってもらいつつ、一語一語、相当に時間をかけて打った。携帯で写したミラーグラスをかけた私の坊主姿の写真付きである。即座に返信が来て、商品開発部の連中に転送してもいいですかという内容。後で聞いたのだが「西部警察みたい」と大受けしたそうだ。しかし言葉がしゃべれないのは理解していないもよう。
 13時20分 筋力リハビリ
 15時00分 術後初めてオセロゲームをする。術前は、かみさんと勝負をすると完璧に負かしていた。ところが術後は反対に私がぼろ負けである。四隅と、その一つ置いた先に、自分の駒を置かなきゃいけないとわかっているのだが、できない。かみさんはその教えを忠実に守っている。
 術後初めて、角角の字ではあるが、漢字で名前を書いた。

2007年9月6日(木)
 13時00分 言語リハビリ。例によって絵の描かれたカードを見せられて名前を言うことを繰り返す。意味は解っているが言葉にできない。なぜだか全部ではないが苦手とする英語の発音が出てくる。会話はSTの問いかけに対してYES・NOでの反応が中心であった。
 14時00分 筋力リハビリ。PTと複数の短い棒の上下を入れ替えることに関して、勝負ができるようになった。パチンコ玉は私はつまめるが、PTは難しいとのこと。歩行訓練は散歩の効果もあって、少し右に傾いたり寄っていったりすることはあるけれど、バッチリ。
 15時20分 MRI検査。「プリントをきがるによんでいく・・・」と、MRI実施の注意事項に、金具のついた下着はダメと書いてあったということを、かみさんに伝えようとした。かろうじて伝わった。
 下記の短文が精いっぱい。
 「30まんひっとねぇ、きにならなくはないねえ」
 「そうね。デブリって、うちゅうのごみ」
 「そうしたらこうなる もってくりゃぁせんのや」
 「でけるもんはでける、でけんもんはでけん」
 「しりとりせんかわりに せんころがししよう」(意味不明)

2007年9月7日(金)
 7時50分 お茶を持ってきてもらって「おはようございます」とあいさつができた。


病院の朝食

 13時00分 言語リハビリ。宿題が出た。身体部位の穴埋め問題というのを、かみさんが帰宅している間に終わらせていた。
 15時30分 担当医が来て、これからのことを教授(主治医)と相談して検査の結果も踏まえて、来週にはきちんと伝えられると思うとのこと。?これからのこと??
 この時にはまだ、大学病院は急性期の患者が入院する所であって、回復期の患者はリハビリ病院などに移されるということを知らなかった。
 15時40分 主治医回診。手術の部位として計算ができなくなる所ではないのでもうしばらく待ってみてくださいとのこと。

 9月8日(土)から9月10日(月)にかけて外泊する。久しぶりの我が家である。何も変わっていない。変わっていたのは自分だけ。

2007年9月10日(月)
 13時00分 食事に関するアンケートに自分で記入する。あ、選択式のやつね。
 13時10分 言語リハビリ。このところ文字を書いても、角角の丁寧な文字になってしまう。そりゃ一画一画注意して書いてるんだからしょうがないっちゃしょうがない。本来は丸っこい字である。この丁寧な角角した文字を書くのは復職してからも数か月続いた。
 14時00分 筋力リハビリ

2007年9月11日(火)
 10時20分 筋力リハビリ
 13時00分 言語リハビリ。このころは宿題として出された、ことわざが部分的に空白になっていて、それを下にある選択肢の中から選んで書いて、それからこれも選択肢として準備されている意味を線でつなぐというものに取り組んでいた。
 19時20分 主治医と担当医2名とでカンファレンスルームで説明。腫瘍の部分はグリオーマで一部はGrade III。取りすぎるぐらい取った(完全に取れたと思っている)出血している部分もあったため完全に取った。取った部分は計算・言語に係る部分ではないので徐々に回復するはず。今後の治療は放射線が考えられる。薬のせいで肝臓の値が悪かったのは回復した。手術後のMRI検査で手術部分に出血があるため、これが治れば一度退院してもよい。痙攣発作に気をつけること。放射線治療は急ぐものではなく機能が回復してから再考してもよいのでは。放射線治療は、だめ押しのだめ押しのようなもの。リスクは放射線壊死がある。これは正常部分が壊れるため運動・言語部分に障害が出るかもしれないということ。また、むかつき、気分が悪いなどの症状も出る。とのこと。
 手術後のMRI検査で手術部分に出血があると聞いたときに、不覚にも貧血を起こして気分が悪くなり、車椅子で帰ってきた。意外と小心者である。主治医と担当医があとで交互に様子を見にきた。

2007年9月12日(水)
 9時00分 担当医が来る。出血の件は、MRIは水と固形物などを大雑把に分別しているような映像なのでCTで撮影しないとわからない。心配しなくてよい。出血しているなら意識がないはず。
 9時15分 筋力リハビリ。
 10時00分 CT撮影を行う。CTの結果、血液ではなくタンパク質の水溶液であった。
 11時00分 この頃、日課として病院構内を朝昼夕と散歩していた。とにかく体を動かしたくってどうしようもなかった。


生々しい傷跡じゃなくなった、髪の毛も伸びてきた

2007年9月13日(木)
 何とか言葉をつなげて言ってみる。
 「なんかあげんかー」(クーラーの温度を上げる)
 「ごはんのおちゃをもってくるひとを、ひとが、かわった」
 「こちとらはげんきになってかえってきよりますんで、しつごしょう、なにもやくにたたん」
 「できることとできんことがある、もどらんかんじゃさんがおる」
 「そうしたらこうなる、もってくりゃあせんのや」
 「100ねんたったらいってみたい」(百貨店)
 「しゅうちゅうできん」
 「おいておいてもらえんかな・・・こころにもないことをいっている」
 「こたえあわせをしてくれ」
 「パソコンでプレゼンしようとしても、だめじゃん。しようとしてみても、だめじゃん」
 言葉は少ないけれども、その時に発語可能な言葉はすっとでてくる。一度出てくると繰り返して言える。
 9時10分 言語リハビリ。リハビリの時も昨日より調子が良い。机の上に9枚カードを並べて、STが連続してカードの絵の名前を言い、それを私が順番に指し示す。3つまでならパーフェクト。昨日までは混乱しがちだった。これを聴覚的把持訓練と言うんだそうだ。
 10時20分 筋力リハビリ

 担当医が、リハビリ専門の個人病院が市内に2ヶ所あるので、その病院への転院もあるとのこと。初耳である。
 その後でやってきた主治医が、退院する時には先の予定を決めてからするべき。リハビリ専門の病院に、集中的に1〜2週間入院してリハビリを行う。体力が大丈夫なら外来で毎日でもいい。まぁ毎日外来というのは無理かもしれないが。
 看護師のCさんは、そこまでしなくても、この大学病院の外来に通うのでもよいかもしれない。自分の親として考えると、自宅で生活することによってリハビリにもなるし、そのうえで外来に通ってきた方がよいとの考え。
 入院した場合、リハビリにどれだけの時間を使ってもらえるのか、1、2時間の短時間であれば、ここの大学病院の外来に通ってくるというのでも同じような気がする。とは、かみさんの意見。選択肢に対する判断力は、当時は充分ではなかったから、かみさんの意見に従うことにする。これがあとになって大正解だった。

<STの評価>
第1期(平成19年8月30日〜9月13日)入院中4回/週、60分
 呼称、動作説明、聴覚的把持力訓練(2-3単語pointhing)
 YES・NOでの反応が正確になってきている。表出は、単語レベルでの発話が増加し、口頭のみでなんとかコミュニケーションが可能。

2007年9月14日(金)
 10時20分 筋力リハビリ
 11時45分 大学病院の中にある医療福祉支援センターの人が3人やってきて、そのときもジャージ姿でソファーに腰掛けていたので、
 「患者さんはどこですか」
 「わたしです」
 頭の傷さえ見えなければ一見普通に見えるから、そうなった。でもこの一見普通に見えるということが曲者である。
 で、肝心の話の主旨はというと「今の状態なら、週3回の外来通院で充分だと思う。だめならその時点でリハビリ専門の病院を紹介できる。なるべく外に出て、普通の生活のリハビリに励むこと」だった。
 14時00分 退院する。外来で現在ついているSTに継続して見てもらうことにする。STがたまたま出張中だったので、相談しようにも相談できないまま、この決定はなされた。
 午後、長女が帰ってきた。

 入院中の言葉の問題についてまとめると、初期の全く単語もろくに喋れなかったころから比べると、確かにぐんぐん良くはなって行ったとは思うのだが、自分としては、その進歩を進歩として感じることができなかった。術後3週間で完全に回復と言われていたわけだし、なにより病院という閉ざされた環境がそうさせていたのかもしれない。



<2.青天の霹靂> 0000000 <目次> 0000000 <3.ぐんぐん良くなっていった自宅療養期>